経  営  談  話  室 
【経営談話室 Vol.31】
 
 創業136年…日本の文化を集約した、千葉の老舗料亭
 
       「うなぎ 安田」              
 
株式会社  安田
     安田社長に聞く
 
千葉県とその県庁の誕生とともに、明治から平成にわたる激動の時を歩んできた老舗 「うなぎ安田」。かつて花開いた古き良き日本の料亭文化を守りながら、様々な時代を生き抜いてきた4代目・安田社長にお話をうかがいました。
 
‥‥‥明治4年にこの場所で創業されたとのことですが。
 今年で136年、私で4代目になります。初代の柳蔵は、 廃藩置県で、木更津にあった県庁が千葉に移った時に、木更津の貝渕から千葉へ来て、鰻屋を始めたと聞いています。
  戦前は利根川の根岸の方から貨物列車で運んだ鰻を使っていたようです。今は問屋を通していますが、やはり天然ものは地場で消費されてしまって、なかなか確保できません。
 もっとも天然ものは痩せた鰻も多く、養殖の方が脂が乗っていて美味しいという方もいます。今は河川の護岸工事などが進み、天然鰻が住めない環境が多くなりました。とはいえ、私どもの店では富士吉田産、宮崎産、鹿児島産の国産鰻を調理しておりますので、評判もいいですよ。


‥‥‥鰻の味の決め手というのはどのあたりなのですか?
 うちでは創業当時からのタレを継ぎ足しながら、味を守っています。焼きに関しては、ガスや電気では火力が強すぎ、普通の木炭では弱すぎる。備長炭が一番適していますが、国内の樫の木が不足し、さらに輸入先の中国でも森林伐採による環境問題が深刻で、日本への輸出が禁止されてしまいました。焼き鳥屋さんで使うのは細い炭ですが、鰻屋で使うのはそれよりさらに太い炭なので、ますます難しい。そんな中で味を守っていくのは本当に大変なことです。
 鰻は冬場に海から川に上がってくるシラスを採って、それを養殖するのですが、今年は不漁で全然採れないんです。 原因は不明ですが、日本で採れる鰻はフィリピン沖の深海で産卵していると考えられていて、おそらく昨年末の大地震の関係で潮の流れが変わってしまい、その影響ではないかと言われています。遠い国で起こった自然災害しかり、炭に使う木材資源もしかり、意外にも私たちの生活と繋がっているということなんですね。

‥‥‥「老舗の鰻屋」に対するお客様の評判は?
 鰻屋というのはどうも敷居が高いようで、ランチなどにも奥様方にあまり来ていただけませんね(笑)。どうも洋食に1万円出すのと、日本料理で1万円出すのとでは違うらしいんです。この感覚のズレを何とかしたいんですが、でもその格式というものも大事なんです。格の違いを楽しんで下さればいいと思いますね。幸い、インターネットを見て来店されるお客様も増えてきました。うちは明治のはじめから同じ材料、同じやり方でやってきています。鰻が食べられないという方がうちに来られて、食べてみたら好きになった、ということもありますよ。うちの鰻はしつこくないので毎日でも召し上がっていただけますし、年輩の方にも好評なんです。
 年間通しての売り上げのピークは、やはり7月の土用に入ってからですね。しかし実際に鰻が美味しいのは、夏よりも脂が乗り始める秋口です。うちは看板は鰻ですが、料理屋として四季折々の料理をご用意しておりますので、鰻以外のメニューもぜひお申し付け下さい。


‥‥‥老舗を守り抜くために苦心している点はありますか?
 うちは鰻屋であると同時に料理屋でもあるので、時代と共に芸者さんがいなくなったのは痛手ですね。今も何人かは呼べますが、ほとんどはお酌だけする配膳クラブのコンパニオンに代わってしまいました。
 昭和30年代には、千葉にも芸者さんが200人くらいはいたんじゃないでしょうか。花柳界の衰退が、料理屋の隆盛にも大きな影響を与えています。かつては料亭文化があり、それが料理屋の本来の姿でした。料亭とは遊ぶところなんですよ。お酒を飲みながら遊び、またお酒が進む。「お座敷遊び」は健康面から見ても合理的で、お料理を出す順番も、いかにお酒をおいしく、楽しく、たくさんいただけるかと工夫が凝らされているんです。それがいつのまにか、芸者遊びのしにくい世の中になってしまった。芸者を呼ぶ料理屋は悪者にされてしまうんです。私は何とか花柳界と料理屋とを同時に盛り上げようと努力したのですが、なかなか思うようにいきませんでした。芸者さんが来る料理屋の良さというものを、今のお客様にも理解していただきたかったのですが、残念ですね。


‥‥‥今の時代は、老舗の料亭が生き残るには難しい時代なのでしょうか。
 ここ数年で、この近辺で長くやってきた老舗の料理屋がいくつも消えていきました。 
 料理屋というのは、日本の文化を集約した場所なんですよ。極端に言えば料理よりも、料理を味わう雰囲気を売る店なんです。建物も器も、そして作法や料理も含めて、ひとつの文化なんです。建物は宮大工にしか造れませんし、床の間には掛け軸、お花を活けて、お茶をたてる。料理を盛る器は伝統工芸品の輪島塗り。建具や家具ひとつとっても、全て日本の文化です。これが日本人に理解されないのは非常に残念なことです。世の中はグローバリゼーションが声高に叫ばれ、流行りものに皆が一斉に飛びつき、その流れに乗り遅れたらダメだと言われる。アメリカ式に勝った負けたで全てを決めてしまい、すぐ裁判にかけたがる。でももうそろそろ、見直した方がいいと思うんですよ。日本が元来持っている文化をもう一 度見直して、時代の波を追いかける駆け足をちょっと止めて、足元を見る時だと思います。そうしなければ日本の文化は衰退してしまうし、守ろうとしている我々が 生き残っていけません。文化を守り、同時にその文化を楽しむお客様が増えていかないとどうしようもないわけです。


‥‥‥プロの職人さんを見つけるご苦労などお聞かせ下さい。
 鰻職人は高齢化が進んでいます。若い人がなかなか入ってこないんですね。昔から鰻職人は串打ち3年・裂き8年・ 焼きは一生と言われ、非常に難しい技術が必要とされる上、 仕事が単調で、普通の板前ならばいろいろと目先の変わったことにチャレンジできますが、なかなか若者がやりたがらない。私も学校を出てから、しばらく銀座の関西割烹に修行に行きました。ぶん殴る、蹴っ飛ばすは当たり前。ちょっとの手抜きも絶対に認めない。銀座で一二を争う厳しさでした。 私たちはそうやってきたけれど、今の若い子は我慢できな いでしょうね。鰻を裂くのも、まず生きている鰻をジッとさせておくのが難しい。職人がやっていると簡単そうに見えますが、下手な人がやると、包丁に鰻がからみついちゃってどうしようもなくなるんです。それと、店を維持していくのに、建物にしても庭の植木にしても、手入れを頼む職人を探すのにも苦労するようになりましたね。


‥‥‥長い歴史の中で、一番商売が厳しかった時代はいつですか?
 今の不景気も厳しいですが、戦争中はお米がないし、お客様も来ない。空襲も激しくなって休業せざるを得ませんでした。千葉の空襲では、うちの前の道路の向こう側まで 全部焼けました。戦後は食料難で、県の農林部にお米を回してもらい、この近辺の料亭はみんな、しばらくの間、雑炊屋をやっていましたよ。
  その後、うちに面した2本の道が都市計画で両方とも拡げられてしまい、うちの敷地はずいぶん狭くなりました。
 かつては敷地の真ん中に、太鼓橋のかかった千鳥の形の大きな池がありました。それを埋めて建物を寄せて、現在に至っています。時代が変わって、この一等地で料理屋なんかやっているのはもったいないとも言われます。マンションでも建てた方が儲かると。こう景気が厳しくなってくると、私だっていろいろ考えます。でもこうして離れ家6棟と庭園を持った料理屋は、千葉にはもう無くなってしまいました。出来る限り、頑張っていかなけりゃいけませんね。


 
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